たろうの城ぶら日記

おすすめのお城を紹介する。お城好きのブログです!!

荒城の石垣~岡城の魅力&見どころ~

14回目の投稿は岡城(おかじょう)をターゲットにします。

岡城は大分県の南に位置し、滝廉太郎「荒城の月」

モデルになったことで知られております。

今回も歴史に始まり、その魅力や見どころについて紹介していきます。

 

 

【岡城の歴史】

岡城は豊後国(大分県)に位置する城になり、天神山の山頂に築かれ、

その広さは23万㎡にも及び、山城としては随一の広さを誇ります。

今回は豊後国岡藩の歴史を中心に城の歴史を見ていきたいと思います。

 

奈良時代室町時代

7世紀にそれまでの豊国が分裂し、豊前国豊後国が成立します。

大宰府が近いことから古くからその影響を受けていたと考えられ、

現存する豊後国風土記大宰府の役人により編集されたとされております。

天神山も古くから戦における要所と考えられており、

1185年に源頼朝に追われた源義経をかくまうために緒方氏が城を築城、

この城が後の岡城につながります。

 

室町時代に入ると、豊後国で勢力を拡大した大友氏の一族である

志賀氏が入城、城を改築し名称も岡城と改めます。

大友氏は豊後国府内(大分市)を拠点に北九州の平定に乗り出し、

少弐氏大内氏と激しい覇権争いを繰り広げます。

 

②戦国時代~近現代

戦国時代に入り、内紛や二階崩れの変等で衰退していた大友氏ですが、

大友宗麟の代に復活し最盛期を迎えることとなります。

大内氏陶晴賢の謀反で衰退すると義長を大内氏の当主にすえ北九州の統一を

成し遂げます。また、宗麟自身はキリスト教に改宗しており、

領土内には南蛮文化が流入していき、文化面での成熟も見られます。

 

しかし、宗麟が子の義統に家督を譲ると再び内紛が発生します。

また、対外においても今山の戦い龍造寺氏に、耳川の戦い島津氏に敗れるなど

勢力に陰りが見えてきます。特に後者の戦いにおいて、府内まで島津氏の侵攻を

許しており同時に有力武将を多く失っております。

一方で岡城は志賀親次の指揮のもと、再三に渡る島津氏を撃退しており、

豊後南における最後の拠点として残り続けます。

 

豊臣秀吉九州征伐を開始すると、

大友氏はこれに従い島津氏に対抗、戦後に豊後一国を安堵されます。

朝鮮出兵において大友氏は、戦局の読み違えから敵前逃亡を犯してしまい

改易処分されます。この際志賀氏も移封され、岡城には中川氏が入城します。

中川秀成は、入城と同時に岡城を近世城郭へと大幅に改築、城下町もあわせて

整備を行います。その後、中川氏のもと複数回にわたり改築されながら

岡城は明治維新をむかえることとなります。

 

明治時代に入ると廃城令により払い下げられ岡城は解体、

石垣が残るのみとなります。この石垣のみの岡城で少年時代を過ごした

滝廉太郎はその経験から荒城の月を作曲したとされております。

 

【岡城の見どころ】

ここからは岡城の魅力について書きます。

岡城は岩盤にそびえ立つ高石垣が目立つ城になります。

そんな岡城の個人的な注目ポイントは2点です!!

 

①石垣群

岡城の魅力は何といってもこの石垣群にあります。

まずは、三の丸の高石垣ですが岩盤から直接建築しており、

城の側面からの敵の侵入を拒みます。

また、石垣を見ていくと場所によって作りが違うのがわかります。

これは、岡城の位置する豊後国阿蘇山の火山や、それに伴う地震等の天災で

度々修築していることが原因で、その時代における最先端の技術を用いて

建築していることが伺えます。

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(三の丸高石垣。隅部は算木積がほどこされている。)

 

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(本丸に向かう太鼓櫓跡。よく見ると六角形の石が石垣に用いられている)

 

②西洋との融合

岡城の位置する豊後国は大友氏がキリシタン大名なこともあり、

住民においても古くからキリスト教が信仰されておりました。

特に岡城下においては、志賀氏が宣教師を保護したため信仰が盛んであり、

中川氏入城、バテレン追放令発令後も隠れキリシタンが潜伏しておりました。

実際に城下町の竹田においては隠れ礼拝堂の遺構が残っております。

 

このキリスト教と同時に流入してきた南蛮文化(西洋文化)が岡城の改築の際に

大きく関わったと考えられております。例えば大手門に向かう登城道には、

通称かまぼこ石と呼ばれる石が道の縁に配されております。

また、大手門は石垣の上部が凸凹になっており、ヨーロッパの古城を思わせる

デザインになっており西洋と日本の文化の融合を見て取れます。

城内においても西の丸御殿に向かう東門は、幅の広いスロープ状の階段に

なっており、さらには家老屋敷に入る階段が螺旋階段上になっており、

築城技術の高さと共にデザインへのこだわりが感じられます。

 

これ等は中川氏の最初の改築時ではなく、その後の改築で築かれたとされており、

岡城が戦用の城から徐々に変化していったことがわかります。

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(大手門への登城道。道の石垣の縁にかまぼこ石が見える) 

 

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(西の御殿に向かうスロープ状の階段。)

 

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(屋敷に向かうらせん状の階段。石垣を曲げるのはかなりの建築技術が必要) 

 

【岡城のアクセス】

 最後に今治城のアクセスについて書きます。

車:岡城近くに駐車場有。そこから大手門まで徒歩10分

電車:豊後竹田駅からバス「岡城入口」下車、大手門まで徒歩15分

 

いかがでしたでしょうか。

岡城はその城下町である竹田の街と合わせて観光することをお勧めします。

大分観光の際は是非足を延ばしてみてください。