石垣の城~丸亀城の魅力&見どころ~
19回目の投稿は丸亀城(まるがめじょう)をターゲットにします。
丸亀城は讃岐国(今の香川県)に位置する現存天守のある城になります。
今回も歴史に始まり、その魅力や見どころについて紹介していきます。
【丸亀城の歴史】
丸亀城の位置する讃岐国の歴史を中心に城の歴史を見ていきたいと思います。
①古代~室町時代
縄文時代後期の遺跡からは稲作が行われていたことも判明しております。
一時讃岐国府が陥落させられるなどその配下に入ります。
朝廷が小野好古を中心としたの追捕使を派遣すると
地場の豪族もこれに従い乱平定に協力、乱鎮圧の一助をなします。
平安時代末期には、瀬戸内海の制海権を握っていた平氏の拠点として
屋島が発展しており、屋島の戦いの舞台になったことでも知られております。
細川氏の配下のもと地場の豪族が力をつけ安富氏、香西氏、香川氏が覇権を
争うこととなります。この覇権争いの過程で亀山に砦が築かれたと考えており、
この砦が後の丸亀城につながります。
②戦国時代~近現代
支配者を失った讃岐においても覇権争いが発生します。
その中で三好氏の支援を取り付けた十河氏(そごうし)は、安富氏や香西氏を屈従させ
勢力を拡大、三好長慶の弟である十河一存の時代に讃岐国を支配します。
土佐の長宗我部氏が四国統一に乗り出すと十河氏はこれに対抗します。
当初は敗戦を重ねていた十河氏ですが、羽柴秀吉による四国攻めが開始されると
これに従い長宗我部氏を撃退、新たに讃岐国に赴任した仙石秀久のもと
所領を安堵されます。
1595年生駒親正が讃岐に赴任すると、それまでの中心地であった聖通寺城が
手狭であったことから新城の築城に着手、高松城と丸亀城を完成させます。
しかし、完成して10年ほどした1615年一国一条城令が発令され、
丸亀城は廃城の危機に瀕します。これに対し生駒氏は、要所を樹木で覆い隠し
丸亀城の存在をひた隠します。後の山崎氏の時代に丸亀藩が立藩するまで
約15年の間丸亀城は隠された城になっておりました。
山崎氏の後に丸亀藩に赴任した京極氏は数十年にわたり城を大幅に改築、
天守の築城や石垣の整備を行い今日にその姿を留めております。
【丸亀城の見どころ】
ここからは丸亀城の魅力について書きます。
丸亀城は3つの日本一が隠されている魅力的な城になります。
個人的な注目ポイントは以下の3点になります!!
①石垣
丸亀城の一番の魅力は何といっても石垣にあります。
山麓から山頂まで4重に重ねられた石垣の総高は60mにおよび
日本一の総高をほこります。特に三の丸の高石垣が目立つ形になっております。
ほとんどの石垣が打込み接(うちこみはぎ)で造られておりますが、
搦め手門側には一部野面積みの石垣が見えます。
(丸亀城の全貌。北側(大手門側)より撮影)
(三の丸の高石垣。扇の勾配と呼ばれる反りが美しい)
(搦め手門側より三の丸を臨む。野面積みと打込み接ぎ、算木積みの対比が美しい)
(二の丸隅部の石垣。算木積みされた石垣に継ぎ足されたのがわかる)
②現存天守
本丸にある現存天守は15mと現存天守で最も小規模な天守になります。
石落としは北側に一か所のみ設置されているだけになります。
これは天守が建築された時代が江戸時代中旬であり、
軍事面より政治面を意識したことが影響していると考えられております。
しかし、一方で城内には隠し狭間(有事の際は壁を蹴破って利用)が
仕掛けられております。
(大手門と天守。大手門は枡形虎口になっている。)
③日本一深い井戸
二の丸にある井戸は、絵図において約65mの深さと日本一深い井戸になっており、
今でも水を湛えております。また、この井戸には伝説が残されております。
石工の名人であった羽坂重三郎が築城された石垣を鉄の棒を使い乗り越えたため、
その技術を恐れた城主により嘘の井戸工事を命じられて埋められたという伝説が
残っております。
三の丸にも井戸が残っており、こちらは抜け穴の伝説が残されております。
(二の丸井戸。覗き込むとかなり深いのがわかる。)
【丸亀城のアクセス】
最後に丸亀城のアクセスについて書きます。
車:大手門近くに駐車場あり。
電車:丸亀駅から徒歩10分で大手門
丸亀城は連なる石垣とその上にのる天守の構図が美しい城になります。
香川観光の際は是非足を延ばしてみてください。