二度築城された城~洲本城の魅力&見どころ~
18回目の投稿は洲本城(すもとじょう)をターゲットにします。
洲本城は淡路島に位置する城になり、元々は阿波藩(今の徳島県)の一部でした。
また一度廃城になり、その後再度築城された城になります。
今回も歴史に始まり、その魅力や見どころについて紹介していきます。
【洲本城の歴史】
今回は城の位置する淡路島の歴史と合わせて城の歴史を見ていきたいと思います。
①古代~室町時代
日本で最初に誕生した島とされており、島には、国生み伝説の聖地として
おのころ島神社が整備されております。
古くから朝鮮半島と都をつなぐ海路における最大の島として栄えておりました。
弥生時代には島の平野部において青銅器文化、山間部では鉄器文化が栄えていたと
考えられており3世紀初頭に最盛期を迎えたと考えられております。
また、平安時代に入ると淡路島は皇室や朝廷に海産物を中心とした
特産物を納める御食国(みつけくに)として発展しました。
室町時代に入ると畿内、四国東部は細川氏の支配下にはいり、淡路国も細川氏が
守護に就きます。その細川氏に従属するかたちで紀州熊野を中心に活動していた
安宅氏(あたぎし)が、淡路島を支配するようになります。
②築城~近現代
畿内において細川氏が三好氏に滅ぼされると、安宅氏は三好氏に従います。
16世紀前半、安宅治康は洲本城を築城します。以降、洲本城は安宅氏の居城として
発展しますが、後の時代に少し南の由良古城に本拠地を移します。
1581年羽柴秀吉が淡路討伐を開始、安宅氏の本拠地である由良古城を攻略、
合戦で功を上げた仙石久秀が洲本城主として入城します。
久秀が四国征伐の功で讃岐国を与えられると、代わりに脇坂安治が入城します。
安治は天守の造営、石垣の増築を行い、倭城での経験を活かした登り石垣を
築くなど大幅な城の改築を実施いたします。
江戸時代に入り、安治が大洲藩に加増移封されると
姫路城城主であった池田氏洲本城が与えられます。
1613年池田忠雄が淡路に入ると由良城を築城し洲本城から本拠地を移します。
由良城代として稲田家が置かれます。この時期に一国一城令の影響で洲本城は廃城、
上の城は破却されたと考えられております。
しかし、稲田氏は由良城の交通の便が悪いことから再び本拠地を洲本城に戻し、
下の城を築城します。この本拠地の移転は「由良引け」と呼ばれ、
城下町ごと移転させたかなり大規模な移動であったと伝わります。
以降は稲田氏の支配のもと明治維新をむかえ、今日の洲本城につながります。
【洲本城の見どころ】
ここからは洲本城の魅力について書きます。
洲本城は二度の築城を経て今日に姿を留めており、
特に上の城はかなり大規模な縄張りを持った山城になります。
個人的な注目ポイントは以下の2点になります!!
①上の城本丸
洲本城の一番の魅力は本丸につまっております。
この本丸周りは脇坂の時代に改築、完成したと考えられており
当時の最新の築城技術が用いられております。
まず、本丸南の大石段を登ると大手門側の本丸虎口に到着します。
この虎口は枡形虎口となっており、防御面を意識した造りになっております。
虎口から入ると武者走り台が目に入ります。ここには当時櫓や土塀が
建築されていたと考えられており、本丸の防御を高めておりました。
一方で天守台のそばにある搦め手門側の虎口も枡形虎口になっており、
礎石も残っております。この礎石と門の石垣の間に隙間があることから、
当時は通用門が付けられていたと考えられております。
天守台は大小二つの天守台が連なった形になっており、大天守の天守台には
模擬天守が建築されております。この模擬天守は展望台に特化した造りになっており、
日本最古の模擬天守となっております。
(洲本城模擬天守。以前は中に入れたが、耐震の関係で展望台の機能は停止している)
(本丸虎口にる続く大階段。城内でも最大規模の遺構である)
(本丸虎口。枡形虎口になっている)
(武者走り台。上からは本丸に近付く敵を狙い撃ちすることが可能)
②石垣群(上の城、下の城、登り石垣)
上の城の石垣は様々な時代の工法も交じっております。
城の東部分はしのぎ積みと呼ばれる隅部が鈍角になっている積み方、
一方で本丸の隅部は算木積みにより築かれております。
また、築城年が大きく離れている上の城と下の城を比べてみると、
上の城は野面積み、下の城は切込み接ぎ(きりこみはぎ)になっております。
また、上の城の山腹には登り石垣が築かれております。
登り石垣が残っている城はかなり少なく、洲本城のほかには彦根城や松山城が
あります。一国一城令の際の破却により崩れている箇所が多いものの
登城路からその姿を確認できます。
※登り石垣とは・・・
秀吉の朝鮮出兵の際に築かれた倭城の築城に用いられた築城方法になり、
万里の長城に似通っています。誕生の背景として日本軍は補給路の観点から、
近くに港がある小高い丘に本丸を築城しました。
その本丸と港の間の防御高めるために登り石垣が誕生、
本丸と港間を登り石垣で囲むことにより防御力を高めておりました。
(南の丸の石垣。よく見ると隅部の石垣を継ぎ足したことがわかる)
(下の城の石垣。上の城の石垣とは造りが異なる。山上には模擬天守が見える)
(西の登り石垣。崩れつつあるため近づくにはかなり注意が必要である)
【洲本城のアクセス】
最後に洲本城のアクセスについて書きます。
登城道は三熊山登山道として整備されており、
下の城(淡路文化資料館)から上の城まで約40分かかります。
車:上の城大手門近辺に駐車場有り。そこから本丸まで約10分
電車:高速バスで「洲本バスセンター」下車。下の城まで徒歩20分。
洲本城は時間があるときに上の城を一周するとその魅力を堪能できます。
淡路島観光の際は是非足を延ばしてみてください。