古風な現存天守~丸岡城の魅力&見どころ~
16回目の投稿は丸岡城(まるおかじょう)をターゲットにします。
丸岡城は越前国の北に位置し、江戸時代には丸岡藩の藩庁になりました。
北陸唯一の現存天守であり、その建築様式は最古の様式を残しております。
今回も歴史に始まり、その魅力や見どころについて紹介していきます。
【丸岡城の歴史】
丸岡城の位置する越前国の歴史については別の城の記事で書きたいので
今回は城の歴史を中心に見ていきたいと思います。
①築城~丹羽長秀による支配
越前国を支配下に治めます。当初は朝倉氏の旧臣前波氏に統治を任せますが、
同じ旧臣の富田氏、さらには加賀の一向一揆衆により越前国は奪い返されます。
これに対し信長は軍を派遣し平定、越前国は柴田勝家に与えられます。
この際、勝家の甥である柴田勝豊により丸岡城が築城されたとされております。
勝家によりしばらく安定した統治が続いた越前国ですが、
丸岡城には青山氏が入城、城の整備をすすめます。
②江戸時代~近現代
青山氏は関ヶ原の戦いで西軍に味方したため戦後に改易、
代わりに結城氏が越前国に赴任、丸岡城には今村氏が入城します。
しかし、この今村氏も越前国のお家騒動(越前騒動)に連座し失脚、
本多成重が入城します。1624年福井藩藩主の松平氏が豊後配流になり
福井藩が減封されます。その際、丸岡城を中心とした丸岡藩が独立、
成重は城の整備、城下町の整備を行い丸岡藩の基礎を築きます。
しかし、本多氏も4代重益が家臣に政治を任せ、酒色に溺れるなど
暗愚な人物であったことからお家騒動が勃発します。
この結果、幕府の裁定により改易され有馬氏が入城、
丸岡藩は有馬氏のもと明治維新をむかえます。
明治4年の廃藩置県の際に丸岡城は廃城、天守を除く全ての建物が解体されます。
国により国宝に指定されるなど保護が進みます。
しかし、昭和23年に福井地震が発生、天守が倒壊してしまいます。
倒壊した天守は倒壊材を70%以上利用し7年の歳月をかけて再建、
今日までその姿を留めております。
【丸岡城の見どころ】
ここからは丸岡城の魅力について書きます。
丸岡城は五角形の内堀などは大正以降の宅地開発の際に埋め立てられており
縄張り等の城郭を感じることはできません。
しかし、その分唯一残った天守に魅力がつまっております。
個人的な注目ポイントは以下の2点になります!!
①天守の外観
天守は望楼型と呼ばれる上下で建屋の造りが違う天守になっており、
狭間や石落しが備えられていますが数も少なく簡素な造りになっております。
天守の屋根は石瓦で葺かれており、現存天守でもかなり珍しい造りになっており、
度重なる修理の際に使われた石が違うことから青く見える個所と、
白く見える個所に分かれております。
また、天守台の石垣は野面積みで築かれており、排水性を高めるとともに
古風な城の雰囲気を引き立てております。
天守と天守台の間に注目すると、初重の底面が天守台より狭いため、
雨水が入らないように庇(ひさし)が設けられています。
これは、現存天守の中でも唯一の遺構になります。
※最古の現存天守
最古の現存天守については、いくつかの説があります。
その中で丸岡城は築城時期(1576年頃)が判明しており、最有力とされていました。
しかし、2019年の調査で天守は1620年以降の本多氏の統治下の木材が
利用されていることが判明しその座を明け渡しております。
現在、有力視されているのは1590年頃築城されたとされている松本城と
1600年頃に築城されたとされる犬山城の2城になります。
(天守内部より石瓦。青く見えるのが江戸時代から使われている石)
②天守内部
非常に簡素な造りになっております。そんな内部において一番の特徴は階段です。
現存天守の階段は往々にして急なものでありますが、
丸岡城の階段はその中でもひときわ急で傾斜角が60°を越す造りになっております。
それに加え段差も広く、段の幅が狭くなっており、
階段には登る用のロープがついているのが大きな特徴になります。
(天守の2階から3階への階段。日本一急な階段とされる)
【丸岡城のアクセス】
最後に丸岡城のアクセスについて書きます。
車:近くに公園駐車場有り。駐車場から城まで徒歩すぐ。
北陸観光の際は是非足を延ばしてみてください。