たろうの城ぶら日記

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幕府も恐れた堅城~篠山城の魅力&見どころ~

20回目の投稿は篠山城(ささやまじょう)をターゲットにします。

篠山城関ヶ原の戦い後に幕府自らの命令(天下普請)により築かれた城になり、

その防御力の高さを恐れた幕府が天守閣の建設を許可しなかったと

伝えられております。

今回も歴史に始まり、その魅力や見どころについて紹介していきます。

 

 

篠山城の歴史】

篠山城の位置する丹波国(篠山)の歴史を中心に城の歴史を見ていきたいと思います。

 

①建国~室町時代

篠山は畿内と出雲等を結ぶ山陰道の要所として発展したと考えられております。

政治の中心地が畿内に移っていくにつれ、重要度を増していた丹波国ですが、

統一する勢力は現れず、三盆地(由良・福知山盆地、亀岡盆地、篠山盆地)ごとで

自立した勢力が乱立していました。

 

室町時代に入ると丹波国一帯は守護細川氏の配下に属し、

その配下の守護代内藤氏が治めることとなります。

応仁の乱において細川氏方で活躍した波多野秀長は、

その功により篠山周辺を与えられます。

以降、篠山周辺は波多野氏のもと発展を遂げます。

 

②波多野氏の支配

篠山周辺を与えられた波多野氏は、波多野稙通の時代に八上城を築城、

ここを本拠に丹波一国の支配に乗り出します。

まずは、守護代であった内藤氏に勝利、さらに細川氏の勢力を駆逐し

領地を拡大します。細川氏の内紛が発生すると、これに乗じて丹波の豪族酒井氏

長沢氏を屈従させ、丹波一国を支配する戦国大名へと発展を遂げます。

 

しかし、波多野晴通の時代になると細川氏に代わって勢力を拡大した三好氏

松永久秀といった勢力に攻められ八上城は落城、

波多野氏も三好氏の傘下に屈従するなど一時的に衰退します。

 

晴通の子波多野秀治は三好氏が衰えると再び独立、八上城の奪還に成功します。

1568年信長が上洛してくるとこれに従い、その後の明智光秀による山陰道制圧に加担、

織田家家臣として丹波豪族の討伐で功をあげます。

しかし、1576年突如として将軍足利義昭の唱えた信長包囲網に参加、

黒井城城主の赤井直正とともに光秀の軍を撃退します(第一次黒井城の戦い)。

その後も複数回にわたり波多野・赤井連合軍は光秀軍を撃退、

信長の山陰攻略は停滞します。

 

これに対し、光秀は八上城と黒井城の間に金山城を築城、

これにより波多野・赤井両氏の連携は分断されることとなります。

この狙いが当たり1579年に1年半にもおよぶ籠城戦の末八上城は陥落、

秀治は処刑され戦国大名波多野氏は滅びます。

この後すぐに黒井城も陥落(第二次黒井城の戦い)、

光秀による丹波征服が成し遂げられ、信長の天下統一へ弾みがつきます。

 

篠山城築城~近現代

その後しばらくは、篠山における中心地は八上城であり続けました。

しかし、関ヶ原戦いに勝利した徳川家康は、山陰道側の防衛地点として

篠山に目を付け篠山城の築城を命じます。

篠山城は天下普請(幕府が諸大名に命令)により築城され、

普請奉行に池田輝政(姫路城を大規模に改築)、縄張奉行に築城の名人藤堂高虎

15か国20の大名の助役により1年足らずで完成します。

完成した篠山城には松平家が入城、以降徳川譜代大名が入城する拠点として

篠山は発展を遂げていきます。

 

明治6年の廃城令を受け城内のほぼ全ての建物が払い下げ、破却されます。

唯一残った大書院も昭和19年に失火で焼失、

今日では石垣や堀、馬出虎口がその姿を留めております。

 

篠山城の見どころ】

ここからは篠山城の魅力について書きます。

篠山城の縄張奉行が藤堂高虎であったことから、篠山城はかなり堅牢な城に

なっております。その堅牢さ故、反乱を恐れた幕府が天守の築城を

許可しなかったとさえ謂われております。

個人的な注目ポイントは以下の3点になります!!

 

①馬出虎口

篠山城の最大の魅力は南、東の虎口に残る馬出虎口になります。

馬出虎口とは、虎口の前に堀を隔てて作られた小さな曲輪(郭)のことで、

馬出の曲輪の周りも堀をめぐらし、馬出への侵入口、

馬出から虎口への侵入口を制限することで城の防備を高めておりました。

 

この馬出虎口は、騎馬戦が主体であった東日本で発達した技術と考えられており、

武田氏後北条氏の城跡では馬出虎口の遺構が多く発見されております。

篠山城の馬出虎口を見ていくと、東は石垣造りの馬出虎口となっており、

一方の南は土塁に囲まれた土造りの馬出虎口となっております。

また、現存はしていないものの北(大手門)側の虎口も

かつては馬出虎口であったことが判明しており、

篠山城は全ての虎口が馬出虎口であったことがわかっております。

 

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(城外から見た東馬出。石垣の上に土塁が築かれており、堀も広く攻略難易度が高い。)

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(城内側から見た南馬出。東馬出と違い土塁のみで築かれている。)

 

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(Google写真で見た篠山城航空写真。馬出を初めとした縄張りがよくわかる)

出典:https://www.google.com/maps/@35.0727697,135.2172794,784m/data=!3m1!1e3

 

②門の防御機能

篠山城には大手門と搦め手門をはじめとした複数の門の遺構が残されており、

それぞれ違った防御設備が施されております。

 

まず、大手門側は連続した枡形虎口になっております。

この枡形虎口は藤堂高虎が発明したもので、

江戸時代以降スタンダードになる防御機能になります。

この枡形虎口を連続させることで、

敵は城内に侵入するために3つの門を突破する必要がでてき、

馬出虎口と合わせると城内への侵入をより困難にしております。

 

一方の搦め手門側は埋門(うずめもん)と呼ばれ、二の丸より少し低いところに

設けられたこの門は、有事の際はその名の通り埋めてしまう仕組みになっており、

防御面を高めておりました。

 

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(大手門側から見た二の丸。ここからZ字状に二つの枡形虎口が連なる。)

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(搦め手門側の埋め門。二の丸より一段低い造りになている。)

 

③石垣

篠山城の石垣は穴太積(あのうづみ)と呼ばれる野面積の一種で築かれています。

この穴太とは、安土桃山時代に活躍した穴太衆と呼ばれる石垣職人であり、

信長、秀吉に仕え数多くの城の築城に関わっています。

また、隅部は算木積が施されており、当時の最新技術が用いられたことがわかります。

 

内堀と石垣の間には犬走りと呼ばれる石垣の崩落を防ぐ仕組みが作られております。

この犬走りは城の強度を高める反面、敵からすると城壁に取り付きやすくなるため

防衛面では非常に不利な作りになっております。

これに対し篠山城では、屏風折れという技術を用いております。

 

屏風折れとは石垣を直線に築くのではなく、所々突き出したりまげたりする

造りになります。これは石垣の上に築いた土塀の狭間からの死角を無くすために

用いられる築城技術になります。

 

この屏風折れを用いることで犬走りに侵入してきた敵に対応することができたと

考えられており、篠山城の防御力を高めていたとされております。

 

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(犬走りと屏風折れ。築城を急いだ関係か篠山城の犬走りはかなり広くなっている)

 

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(二の丸石垣。穴太積と算木積がよくわかる。隅部に反りがないのが高虎の特徴)

 

篠山城のアクセス】

 最後に篠山城のアクセスについて書きます。

車:大手門前に駐車場有り。そこから本丸まで歩いてすぐ。

電車:「篠山口駅」より神姫グリーンバス二階町」から徒歩10分

篠山城はその堅牢さ故、築城した幕府すら恐れる防御力となりました。

篠山観光と合わせて是非足を延ばしてみてください。