たろうの城ぶら日記

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堀と土塁の城~湯築城の魅力&見どころ~

15回目の投稿は湯築城(ゆづきじょう)をターゲットにします。

湯築城愛媛県に位置し、築城依頼長らく伊予国の中心地であり続けました。

今回も歴史に始まり、その魅力や見どころについて紹介していきます。

 

 

湯築城の歴史】

湯築城は今の松山市に位置する城になり、

すぐそばの勝山には松山城が築城されております。

今回は伊予国の歴史と合わせて城の歴史を見ていきたいと思います。

 

奈良時代鎌倉時代

伊予国の中心地は元々海上交通で栄えた今治でありました。

しかし、藤原純友の乱により今治国府が占拠されるとその力は衰え、

各地で豪族が勢力を拡大していくようになります。

その中から勢力を拡大した河野氏伊予国における覇権を握ることになります。

 

平安時代末期、河野通信(こうのみちのぶ)源頼朝に協力、

西国の平氏を討つのに活躍した功で伊予における地位を確立します。

しかし、承久の乱において後鳥羽上皇に味方したため、

敗戦後に通信を始めとした一族のほとんどが配流の憂き目にあいます。

これにより河野氏の勢力は大幅に衰退します。

 

細々と勢力をつないでいた河野氏ですが、元寇において河野通有

水軍を率いて活躍すると復権、失っていた旧領を取り戻すなど

通有のもと河野氏は最盛期を迎えます。

 

室町時代~廃城

室町時代に入ると河野氏湯築城を築城、内陸部にある本城に拠点を移します。

しかし、内陸部に本拠点を移したことで湯築城を中心とした宗家と

海沿いの港山を中心とした分家(水軍)による内紛が発生します。

中でも本家と予州家による内紛は家臣団を二分、細川氏大内氏といった

外部勢力の思惑も重なり長期化、河野氏戦国大名化を妨げた一因になります。

 

戦国時代に入ると、外部勢力の侵入を受け河野氏による伊予国内の支配は

崩壊しており、芸予諸島村上氏(村上水軍)を中心に有力国人が乱立します。

また、末期には軍事力を毛利氏に委ねており、長宗我部氏や大友氏の侵攻に

対抗する力は残っていなかったと考えられております。

1585年豊臣秀吉による四国に侵攻し始めると、河野通直湯築城に籠城して

対抗します。しかし、1ヶ月の籠城後、小早川隆景の説得を受けこれに降伏、

57代にわたり伊予国を支配した河野氏は終焉を迎えます。

隆景が移封した後、伊予国に赴任した福島正則は拠点を国分山城に移します。

これにより湯築城は廃城となり、城としての役目を終えます。

 

湯築城の見どころ】

ここからは湯築城の魅力について書きます。

湯築城は石垣がなく、堀や土塁を中心とした典型的な中世の城になります。

そんな湯築城の個人的な注目ポイントは2点です!!

 

①堀&土塁

湯築城の特徴は何といっても二重に張りめぐらされた土塁になります。

湯築城は典型的な中世の城であり、当初の城域と思われる丘陵部、

丘陵部を囲む内堀、内堀土塁、普段はここで生活していたと思われる武士居住区、

外堀土塁、外堀という作りになっております。

中でも外堀を築いた際の土でできたとされる外堀土塁は圧巻で

幅20m、高さは5mに及びます。

 

また、大手門付近には遮蔽土塁と呼ばれる形式の土塁が築かれており、

大手門から入城した敵が上級武士居住区に侵入するのを防いでおります。

 

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(内堀と内堀土塁。堀自体は決して広くはなく土塁での防御が重要である)

 

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(外堀(左)と遮蔽土塁(右)。当時はこの間に門を構えて防御していた)

 

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(外堀の断面。かなりの大きさなことがうかがえる)

 

②平入虎口

二重の堀、土塁で防御を固めている湯築城ですが、

虎口は平入虎口になっており決して防御力は高くなっておりません。

これは居住空間としての利便性を重視した結果とされており、

虎口前で敵を撃退する編隊がされていたと考えられております。

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(搦め手門側の平入虎口) 

 

湯築城のアクセス】

 最後に湯築城のアクセスについて書きます。

車:付近に駐車場有。そこから徒歩すぐ

電車:伊予鉄道路面電車道後公園」下車すぐ

 

いかがでしたでしょうか。

松山は松山城が有名です。その松山城湯築城を合わせて見ると、

城の作りの歴史が感じられるのでお勧めです。

松山観光の際は是非足を延ばしてみてください。