たろうの城ぶら日記

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名手の水城~今治城の魅力&見どころ~

13回目の投稿は今治城(いまばりじょう)をターゲットにします。

今治城愛媛県に位置し、築城の名手と言われた藤堂高虎宇和島城から移封して

築城した城になり、日本三大水城(残りは高松城中津城)に数えられております。

今回も歴史に始まり、その魅力や見どころについて紹介していきます。

 

 

今治城の歴史】

今治城伊予国(愛媛県)に位置する城になり、芸予諸島今治の一部です。

今回は今治芸予諸島の歴史を中心に城の歴史を見ていきたいと思います。

 

奈良時代室町時代

今治は瀬戸内海に面しており、瀬戸内海の島々を抱えていたことから

海上交通の要所として発展しておりました。都において律令国家が成立すると、

伊予国国府今治市に置かれており伊予国の中心地でありました。

 

しかし、南予地方を中心に藤原純友の乱が発生、国府は純友により

制圧されてしまいます。乱鎮圧後に再興されるもののかつての力はなく、

伊予国は各地で豪族が勢力を拡大していきます。

その中で、平安時代末期から勢力を拡大した河野氏は、松山に湯築城を築城、

以降伊予国の中心地は松山に移り、今治は支城が置かれ統治されます。

 

②戦国時代~近現代

湯築城を中心に伊予国の統治を開始した河野氏ですが、

その統治は安定したものではありませんでした。特に今治においては、

細川氏大内氏毛利氏といった中国地方の勢力の芸予諸島(しまなみ海道)への

侵攻にさらされることとなります。

これ等の諸勢力の侵攻に対して河野氏は当初こそ互角に渡り合っていたものの、

内紛等により次第に勢力が衰退し始めます。その中で芸予諸島を中心に勢力を

拡大したのが村上氏(村上水軍)になります。村上氏は拠点とする島によって

いくつかの勢力に分かれており(因島来島能島等)、それぞれが毛利氏、

河野氏に従うことで勢力を拡大していきます。

 

長宗我部氏に続き、豊臣氏が四国に侵攻し始めると、

来島村上氏はこれにいち早く臣従し独立大名として認められます。

一方で因島村上氏は毛利氏、能島村上氏は小早川氏に従い、

伊予国の新領主となった小早川隆景のもと活動を続けます。

しかし、1588年に海賊停止令が発令されると、村上氏はこれまでの海賊行為を

禁止され勢力が縮小していくこととなり、村上水軍は壊滅することとなります。

この時、唯一豊臣氏に従っていた来島村上氏関ヶ原の戦い後、

豊後(大分)の玖珠郡を与えられ来島氏として江戸時代を迎えます。

 

関ヶ原の戦いの功で藤堂高虎宇和島より移封すると今治城を築城、

今治における拠点をこれまでの国分山城から移します。

高虎は今治城を中心に城下町を整備、現在の今治市街となる街が完成したと

されております。高虎が津藩に転封となると、その養子である藤堂高吉が統治、

高吉も転封となると松平氏が入城します。

この松平氏のもと今治城明治維新をむかえることとなります。

 

明治時代に入ると、明治2年今治城は廃城、ほとんどの建築物は解体されます。

この際に残った武具櫓も明治4年の火災により内部の火薬に引火し爆発炎上、

廃城令を待たずして今治城は、全ての建築物が解体されてしまいます。

 

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(今治模擬天守と高虎像。模擬天守はなぜか望楼型)

 

今治城の見どころ】

ここからは今治城の魅力について書きます。

今治城はかなり広い堀に囲まれた水城になります。

そんな今治城の個人的な注目ポイントは2点です!!

 

①史上初の築城技術

今治城の鉄御門(くろがねもん)にいたる虎口は、枡形虎口になっております。

この枡形虎口は高虎が発明したとされており、

この今治城に初めて実装されたと考えられております。

 

また、今治城はもう一つの史上初があるとされております。

それは天守の形で、今治城層塔型天守と呼ばれる形になっていたとされ、

それまでの望楼型天守と比べると建築にかかる時間、コストが削減でき、

江戸時代以降の天守のスタンダードとなっていきました。

今治城天守は、築城後すぐに丹波亀山城に移築され、明治時代に解体されたため

残念ながらその姿を拝むことはできません。

(ただし、今治城には天守台を初めとした天守の遺構が発掘されておらず、

 そもそも天守の存在自体疑問視されております。)

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(鉄御門の枡形虎口。虎口において敵の侵入を食い止める)
 

天守の形

大きく分けて2種類あります。

望楼型(ぼうろうがた)天守

戦国時代にスタンダードな天守の形で、下の入母屋造の建物の上に、物見用の櫓を

のせた天守の形です。元々上下で別の建物と考えることができるため、

上層と下層で建物の形が変化する、全層を貫く柱がない等の特徴があります。

代表例は高知城犬山城松江城などがあります。

 

層塔型(そうとうがた)天守

江戸時代以降スタンダードな天守の形で、

ほぼ正方形の層を徐々に小さくして積み上げた天守の形になります。

各層が同じ形に見える、全層を貫く柱がある等の特徴があります。

天守台を正方形に築く必要があるため流行りませんでしたが、

築城技術が向上した江戸時代では時間、コスト削減の観点から

積極的に採用されスタンダードになります。

代表例は松本城宇和島城などがあります。

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(望楼型の例である高知城。上下で建物の形が違う)

 

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(層塔型の例宇和島城。層塔型は破風等の作りもない)

 

②城郭のつくり

今治城の最大の特徴は城郭の作りと考えられております。

築城の名手と言われる人物は数多くいますが、

その中でも三大築城名手(藤堂高虎加藤清正黒田官兵衛)は

それぞれ城郭の作りに特徴があり、中でも高虎は高石垣枡形虎口といった

城に侵入させない仕組みを張りめぐらす一方で城自体は単純な作りでありました。

 

今治城においても同じ高虎が築城した宇和島城と違い、城下町の形成を意識し、

城内の作り自体はすごいシンプルになります。

しかし、枡形虎口、三重に囲まれた堀等の城内に侵入できないようにする

仕組みに高虎の築城技術が隠されております。

また、石垣の周りは犬走りと呼ばれる細い平地があり、

これは水上での築城において地盤を強化するために設けられたと考えております。

 

加藤清正藤堂高虎

共に築城の名人として名高い二人ですが、その築城技術はよく比較されます。

清正は実戦的な城の作りに優れており、広い縄張りを持つ城、籠城戦においても

負けない城の築城を得意としておりました。

そのため広い城内のいたる所に敵を撃退する仕組みを設けております。

代表例は熊本城があげられます。

一方、高虎は敵を侵入させない城にこだわり、高石垣や堀といった

侵入させない仕組みを張りめぐらせ、城自体は単純な作りが多くなっております。

代表例は津城伊賀上野城があげられます。

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(内堀外から見た今治城。内堀は50m上あり、弓矢の射程距離を上回る)

 

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 (天守から見た今治港今治港は元々今治城の中堀を改築して作られた)

 

今治城のアクセス】

 最後に今治城のアクセスについて書きます。

車:鉄御門近辺に駐車場有。そこから徒歩すぐ

電車:今治駅からせとうちバス今治城前」下車すぐ

 

いかがでしたでしょうか。

今治は、今治城以外でもタオルで有名な街になります。

愛媛観光の際は是非足を延ばしてみてください。