たろうの城ぶら日記

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天下泰平の城~宇和島城の魅力&見どころ~

12回目の投稿は宇和島城(うわじまじょう)をターゲットにします。

宇和島城南予地方に位置し、築城の名手と言われた藤堂高虎が築城、

現存12天守の一つに数えられております。

今回も歴史に始まり、その魅力や見どころについて紹介していきます。

 

 

宇和島城の歴史】

宇和島城伊予国(愛媛県)に位置する城になりますが、

伊予国の中心地ではありませんでした。(伊予国の中心地は松山周辺)

そこで今回は、伊予国の歴史よりも城の歴史に焦点を当てて

見ていきたいと思います。

 

平安時代室町時代

宇和島周辺は古くから漁業が盛んであり、その漁業に従事していた民が

次第に海賊化していき、海賊の巣窟となっておりました。

平安時代、海賊行為に手を焼いた都の役人は、伊予に国司を派遣し海賊討伐を

命じます。その中で伊予の国司として赴任してきた藤原純友は、

逆に自らが海賊行為を開始するようになり、日振島(宇和島周辺の島)を中心に

一大勢力を築き上げ畿内に進出、藤原純友の乱をおこします。

 

純友率いる海賊軍は、一時は太宰府を占領するなど最盛期を迎えますが、

東で平将門の乱が鎮圧され都の軍が西国にむかうと徐々に勢力が縮小し始め、

乱開始から2年して討伐(あるいは逃走)されます。

この鎮圧の過程で、橘遠保(たちばなのとおやす)が後の宇和島城の位置に

砦を構えたとされております。

 

鎌倉時代になると西園寺公経(さいおんじきんつね)が幕府より宇和島地方を

与えられ、遠保が砦を築いた位置に板島丸串城を築きます。

以降、宇和島西園寺氏による支配下のもと発展していきます。

 

②戦国時代~近現代

戦国時代に入ると宇和島は土佐の長宗我部氏、豊後の大友氏、安芸の毛利氏等の

近郊勢力の侵略をうけるようになります。西園寺氏はそれ等の諸勢力の侵攻に

耐えていましたが、ついに長宗我部元親に降伏します。

ここからしばらく宇和島の統治者が安定しない時代が続きます。

 

翌年に豊臣氏が四国侵攻を開始すると元親はこれに降伏、

伊予は小早川隆景が新領主として入城します。しばらくして隆景が九州平定の功で

移封になると、宇和島伊予大洲戸田勝隆が入城します。勝隆は西園寺氏

殺害、宇和島の支配を固めるとともに圧政を敷きます。

そのため何度か一揆が発生し、板島丸串城は一揆勢に襲われた記録が

残っております。朝鮮出兵の過程で戸田氏が断絶すると代わりに入城したのが

藤堂高虎になります。

 

高虎は赴任早々に丸串城を近世城郭へと大規模に改修、宇和島城と名称を

変更します。高虎は城の完成を見届けると今治に移封、その後富田氏、

徳川直轄領と宇和島の支配者は変遷していきます。

 

1616年伊達政宗の長男である伊達秀宗宇和島に入城、

ようやく宇和島の統治者が安定、以降宇和島藩は伊達氏のもと発展し続けます。

伊達氏は1666年に天守を中心に宇和島城を大幅に改修、縄張りは高虎の時代、

天守は伊達氏の時代といった今日の姿になります。

 

明治時代に入ると廃城令による解体を免れたものの、町の整備を続ける過程で

明治33年頃に櫓や城が解体されます。また、第二次世界戦争に突入すると

宇和島愛媛県内で最多の空襲を受け、現存していた追手門(大手門)が焼失、

天守のみが残る今日の形になります。

 

宇和島城の見どころ】

ここからは宇和島城の魅力について書きます。

宇和島城の魅力は戦国時代の縄張りと江戸時代の天守が融合した城郭になります。

そんな宇和島城の個人的な注目ポイントは3点です!!

 

現存天守

高虎が築城した宇和島城ですが、天守は1666年の伊達氏の改修によって

建て替えられたとされております。当時は江戸幕府が安定期に入り

天下泰平の時代に入っており、そのため城は戦い用の城ではなく、

居住空間を重視した造りになっております。

 

まず城の外観ですが、石落とし狭間といった防御設備が無く、

窓も縦格子があるもののかなり幅が広くなっております。

また、現存天守としては唯一となる障子戸が残っており、

居住空間であった頃の名残が伺えます。

しかし、その一方で全ての窓の下には鉄砲掛けがあり、

窓から直接射撃を行う防御策が設計されていたと思われます。

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(宇和島城天守。石落とし等の防御設備が見当たらないのが特徴である。)

 

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(天守の桃瓦。桃瓦は魔除けとして使われ、他に犬山城岡山城等で確認ができる。)

 

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(窓の下の鉄砲掛け。有事の際は窓から射撃したと思われる。)

 

②城郭のつくり

天守自体の防御性能は低いものの、縄張り自体は防御性能が高くなっております。

例えば、城内に侵入し三の門付近から侵攻してきた敵は、本丸に行くために

二の丸を経由する必要があり、その際に本丸からの攻撃を受ける形になります。

また、本丸の虎口は平入虎口になっているものの門の両側に櫓を構えた造りに

なっており、敵は本丸入城前に痛手を被ることになります。

 

さらに城郭全体のの作り自体も高虎の工夫が見えております。

宇和島城の縄張りは五角形になっており、当時は周りに堀(西側は海を利用)を

はりめぐらせ海水を引いた海城であったと言われております。

また、この五角形であることが空角の経始(あきかくのなわ)と呼ばれ、

城を四角形と敵に思わせ有事の際に囲まれたとしても、

空いている一辺から反撃や逃走ができる作りにしております。

実際に幕府の隠密の密書に「四方の間、合わせて十四町」と記載されており、

高虎の狙い通りになっております。

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(三の門から本丸を臨む。本丸から侵入者に攻撃しやすい作りになっている。)

 

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(二の丸より本丸虎口を臨む。双方の石垣の上には櫓が建築されていた。) 

 

③現存している建築物

天守以外にも宇和島城には現存している建築物がございます。

当時の搦手門側の入り口にある上り立ち門は、現存する薬医門としては最大級

であり、創建期がはっきりしておらず最古の薬医門の可能性を秘めております。

また、上り立ち門からの登城道の途中に山里倉庫と呼ばれる建築物が

現存しております。これは三の丸に建築された武器庫を移築したもので、

現在は城山郷土館として一般公開しております。

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(上り立ち門。搦め手門側であるが立派な作りになっている。) 

 

宇和島城のアクセス】

 最後に宇和島城のアクセスについて書きます。

車:長屋門(北門)近辺に駐車場有。そこから本丸まで約10分

電車:宇和島駅から徒歩25分で長屋門登城口。そこから本丸まで約10分

 

いかがでしたでしょうか。

登城しやすいのは長屋門側(北門)からですが、少し回って上り立ち門(南門)から

登城したほうが、城の縄張り含めよくわかると思います。

宇和島は、宇和島城以外も闘牛が見られることで有名な街になります。

南予観光の際は是非足を延ばしてみてください。