たろうの城ぶら日記

おすすめのお城を紹介する。お城好きのブログです!!

功名が辻~高知城の魅力&見どころ~

記念すべき1回目の投稿は「高知城」をターゲットにします。

歴史に始まり、その魅力や見どころについて書いていきます!!

が、歴史パートが長くなりすぎたので城パートが見たい方は

下記の目次からリンクしてください(>_<)

 

【高知(土佐)の歴史】

 高知城について入る前に少し、高知(土佐)の歴史について見ていきます。

 

皆さんは、土佐の歴史的有名人と聞くと誰を思い浮かべますか??

坂本龍馬中岡慎太郎岩崎弥太郎板垣退助・・・そうそうたるメンツですが、

全員が幕末から明治時代にかけて活躍した人物ばかりです。

どうしても土佐というと幕末以降がメインになってしまうのですが、

今回は高知城築城(江戸時代初め)までの歴史を見ていきたいと思います。

 

①建国~室町時代まで

平安時代流刑地の一つということもあり特に有力者もなく、

都からの国司による統治が続いておりました。有名な国司として紀貫之がおり、

帰京の際に「土佐日記」(「男もすなる日記といふものを~」から始まる

古典で習った文学です!)を記載しております。

 

鎌倉時代室町時代ともに守護等の役職者が在京での統治を実施したため、

守護の自立(守護の戦国大名化)がおこることのなかった土佐ですが、

応仁の乱後に一条氏が土佐西部(現在の四万十市)に移住し、土着。

戦国大名の土佐一条氏として土佐西部の開拓を進めていきました。

 

②戦国時代~高知城築城まで

戦国時代に入ると、土佐東部においても現地の豪族が戦国大名化していき、

土佐七雄と呼ばれる勢力が拡大、各地域の開拓がすすみました。

その七雄の中から出てきたのが長宗我部氏です。

長宗我部氏は、長宗我部元親の代に土佐東部を統一。

勢いに乗った元親は、土佐一条氏にも勝利し土佐国を統一します。

 

土佐を手中に収めた元親は、続いて四国の統一に着手、

阿波(徳島)、讃岐(香川)、伊予(愛媛)と平定し、

何と土佐統一からわずか10年で四国を統一を成し遂げます。

(※完全に四国統一はしてないとの説もあります。)

 

しかし、この統一を快く思わなかったのが、後の天下人羽柴(豊臣)秀吉です。

長宗我部氏は羽柴氏、毛利氏、宇喜多氏の三方向から攻撃を受け降伏、

元の土佐一国を安堵され豊臣政権に組み込まれることになりました。

その後は豊臣氏の下で精力的に活動、小田原城攻めや朝鮮出兵において

功をあげました。

 

秀吉の死後、すぐに元親も死去。土佐では誰が後継者争いが勃発します。

その混乱のさなか迎えた関ヶ原の戦い、ここで長宗我部氏は西軍として

参加するも、当初から東軍での参加を目論んでいたこともあり

戦闘をせずに敗戦を迎えることとなります。

しかし、西軍で参加した事を咎められ改易の憂き目にあいます。

そして代わりに赴任したのが高知城初代城主となる山内一豊です。

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(上)高知県立歴史民俗博物館にある長宗我部元親

 

高知城の歴史】

ながながと土佐の歴史を書いてしまったが、

ようやく本題の高知城に入ります!

山内一豊による築城

関ヶ原の戦い後、土佐に赴任した山内一豊は浦戸城に入城、

長宗我部氏が一時期本拠地としていた大高坂山城の改築、

高知城の築城に乗り出します。

 

なぜ一豊は、浦戸城ではなく別の城のの改築に乗り出したのでしょうか??

これにはいくつか理由がありますが、一番大きいものは城の役割の変化が

あげられます。

江戸時代以降これまでの戦用の城(山城)から

街の中心地としての城(平城)といった城の役割が変化してきており、

浦戸城は城下町が作りにくい土地に築城されていたのです。

(城郭の歴史に関しては別の記事で触れます。)

 

1601年に築城を開始した高知城ですが、立地は浦戸湾に近いという利点の一方、

デルタ地形のため水害の難所でもあり、本丸(天守閣)は2年で完成したものの、

築城から最終的な完成まで10年もの歳月を要し、1611年に完成しました。

一説によると一豊公の前任地である掛川城(静岡)を模して築城されたと

謂われております。

 

②江戸時代以降

江戸時代以降、土佐は山内氏による安定した統治が続けられておりましたが、

1727年の大火で大手門を除き高知城は全焼してしまいました。

その後約20年かけ天守閣等が復元、元の建造物を忠実に再現したと

謂われております。

 

明治時代にはいると1873年の廃城令により追手門を除く本丸周辺の建造物は

破却されますが、奇跡的に天守閣は免れ、そのまま明治、大正時代を過ごします。

一度目の破却の危機を乗り越えた高知城に二度目の危機が迫ります。

第二次世界大戦終戦間際の1945年高知も大空襲を受けます。

高知市街は大きな被害がでましたが、高知城は奇跡的に一部の建造物の

破壊のみで乗り切ります。

そして、高知城は数少ない現存天守(現存12天守)として

今日までその姿をとどめております。

 

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()高知公園内にある山内一豊公の像

高知城の見どころ】

歴史の記載はここまで!ここからは高知城の魅力について書きます。

高知城は数少ない現存天守ということもありかなり見どころは多いのですが、

個人的な注目ポイントは3点です!!

現存する建物群

歴史のところにも書きましたが、高知城の大きな特徴として天守閣を始めとした

本丸部分(城の中核部分)遺構が数多く残っていることがあげられます。

具体的には、まず天守閣が現存しており、全国で12城ある現存天守の城として

数えられます。天守閣は外廊(バルコニー)に出ることができ、

そこから高知市内の景色を一望すると殿様気分を味わうことができます。

また、本丸御殿(将軍等の宿泊所)が現存しているのは、日本でも高知城

川越城(埼玉)のみとなっておりかなり珍しい建造物になります。

 

日本で唯一の現存する忍び返し

「忍び返し」とは、小学校で習った「ねずみ返し」の人間版と

思っていただけるとわかりやすいです。

城を攻めてきた相手に対して城壁を登ってこれないよう城壁に鉄剣が

刺さっております。これは、日本に現存する唯一の遺構となっており

矢狭間、銃眼と並ぶ城の防衛の仕組みになっております。

 

近くて遠い天守

高知城自体が山の上に築かれていることもあり高知公園外からでも目視でき、

江戸時代であれば市内の象徴的存在として目がついたと思われます。

しかし、実際に追手門等から入城して本丸まで行こうとなると

かなり遠回りさせられます。しかも、その間の城壁には矢狭間や銃眼といった

防衛の仕組みを見て取ることができ、実戦的な城だと気づくことができます。

実は山内一豊が浦戸城に入城した際に、長宗我部氏を支持する勢力が一揆

おこしており、まだまだ油断できない状況で一豊が統治したことに

起因しております。

 

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(高知城天守閣 手前に見えるのが本丸御殿)

 

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(石落しと忍び返し )

 

高知城のアクセス】

 最後に高知城のアクセスについて書きます。

車:公園内に駐車場があるのでそこから徒歩3分

電車:とさでん「高知城前」駅から徒歩5分

 

いかがでしたでしょうか。

高知城高知市のど真ん中にあり、近くにひろめ市場もありますので、

観光の際は是非足を延ばしてみてください。