城郭の博物館~鳥取城の魅力&見どころ~
2回目の投稿は「鳥取城」をターゲットにします。
残念ながら現在の鳥取城は城や門等の建築物の遺構がほとんどなく、
石垣のみが残る城跡ですが、その石垣がすごい魅力的な城跡になります。
今回も歴史に始まり、その魅力や見どころについて紹介していきます。
【因幡国(鳥取県東部)の歴史】
まずは、鳥取城が位置する因幡国の歴史について見ていきましょう。
①建国について
「因幡国」は「いなばのくに」と読みその表記自体はかなりゆれおり、
例えば古事記では「稲羽」、先代旧事本紀では「稲葉」とかかれており、
他にも「印旛」、「印葉」等々が存在している。
どこかのタイミングで外から人が流入し、集落が作られてきたと
考えられているが詳細は判明しておりません。
②建国~鳥取城建築まで
7世紀には律令国としての因幡国が成立していたと考えられており、
時は進み室町時代になると因幡山名氏が守護として統治するようになります。
余談ですが、山名氏は室町時代に強大な力をほこり、
全国66か国の内の11か国を支配、「六分の一殿」と呼ばれておりましたが、
後の明徳の乱で足利氏に敗北、衰退していくこととなります。
早々に降参したため領地を安堵され、
守護が有力大名化していくことで戦国時代を迎えることとなります。
しかし、政情は不安定であり、国人、豪族による反乱だけでなく、
山名氏の内紛(因幡山名氏vs但馬山名氏)も発生していました。
そんな争いの過程で16世紀中頃に鳥取城が築城されたと考えられております。
【鳥取城の歴史】
16世紀中頃に成立した鳥取城ですが、
当時成立した城は自然地形を利用した山城であり、
よくイメージされる城(石垣や天守等が建築される)とは大きく異なるもので
城という字のごとく土から成る城でありました。
内紛の過程で築城された鳥取城はすぐさま争いの舞台となり、
複数回の落城を経験することになります。
①因幡山名氏vs但馬山名氏+武田高信
山名氏の内紛(因幡vs但馬)の対立が長引き、政情が不安定になった因幡国では
各地で有力者が出てきました。その中から頭角を現した武田高信は
因幡守護の山名豊数を逃亡させ、山名豊弘(但馬氏)を名目上の守護に擁立、
しかし、豊数の弟である山名豊国は、毛利氏に攻め滅ぼされた
尼子家再興軍(山中鹿之助中心)と手を組み、高信と対立するようになります。
そこで高信は毛利氏と手を組むようになり、
鳥取城は、尼子再興軍と毛利氏の争いの舞台になります。
②山名豊国+尼子再興軍vs武田高信+毛利氏
因幡国を巡る有力者の争いに加えて、尼子vs毛利の争いの舞台となった
鳥取城はその後めぐるましく城主が変わることとなります。
1573年豊国は尼子家再興軍(山中鹿之助等)と手を結び、鳥取城を攻略、
その後の戦いで高信を謀殺し、因幡の支配を固めにかかります。
また、この時に因幡山名氏の拠点を鳥取城に移し、布勢天神城から
三層の天守を移築したといわれており、近世城郭のはしりが見受けられます。
しかし、その1か月後に尼子再興軍の勢力拡大を快く思わない
毛利氏(吉川元春)により鳥取城は攻められ落城、豊国は毛利氏の軍門に下り、
毛利豊元が城主となります。
明けた翌1574年再び尼子再興軍が鳥取城を再び攻略します。
しかし、尼子再興軍は後ろ盾になっていた但馬山名氏が毛利氏と和睦したため
若狭鬼ヶ城へ撤退、1575年再び毛利氏の手に渡り、豊国が城主に落ち着きます。
尼子再興軍と毛利氏の争いが去った鳥取城ですが、
今度は毛利氏と織田・豊臣氏の争いの舞台になります。
③豊国+毛利氏vs織田・豊臣氏
1580年織田信長の命を受けた羽柴秀吉は毛利氏の拠点であった
鳥取城に攻め入ります。これを受け城主であった豊国は数か月の籠城後、
家臣の反対を無視して降伏、織田氏の軍門に下ります。
しかし、家臣はこれを快く思わなく豊国を追放、
鳥取城は三度毛利氏の手に渡り新たな城主として吉川経家を迎えます。
翌1581年羽柴秀吉は豊国を従軍させ再び鳥取城に攻め入ります。
数々の戦いを経て防御面が大幅に強化されていた鳥取城に対し、
この秀吉の二度目の鳥取城攻略は、「鳥取の飢え殺し(とっとりのかつえごろし)」
と言われる日本史上でも類を見ない悲惨な戦いとなり落城、
織田方の宮部氏が鳥取城主として入城。織田、豊臣勢の山陰の拠点となります。
※鳥取の飢え殺しとは・・・
ここで少し余談になりますが、鳥取の飢え殺しについて紹介したいと思います。
実は秀吉はこの戦いの前に三木合戦においても「三木の干殺し(みきのひごろし)」
と呼ばれる兵糧攻めを行っておりますが、こちらはあと少しのところで謀反が発生、
当時では類を見ない長期戦に発展しています。
その反省を活かした秀吉は、まず因幡国へ流入する米の買占め実施、
加えて城周囲の村を攻撃し鳥取城に逃げ込ませ兵糧の消費を早めさせ、
更には周辺に砦を築き毛利氏による補給路を断つという徹底した戦略を実施します。
この結果鳥取城の兵糧は一か月で底をついたといわれ、
家畜に始まり草や藁、更には餓死者の人肉等・・・4ヶ月におよぶ戦いの末
開城した際の様子は悲惨すぎて言葉に表せないほどでありました。
④豊臣政権~江戸時代
織田・豊臣政権下を宮部氏の元過ごした鳥取城は、関ヶ原の戦い後
東軍方の勢力により攻められ落城、関ヶ原の戦いで功をあげた
池田長吉が城主となります。
近世城郭(石垣や門等が立ち並ぶ)への大改築を行います。
その後入城した池田光政(元姫路藩主)により城下町が整備され近世城郭としての
鳥取城が完成したと考えられております。
その後、備前岡山藩との所領交換により入城した池田光仲の子孫により
明治時代を迎えることとなります。
⑤明治時代~現代
陸軍省の管轄になります。
しかし、1876年に鳥取県が島根県に編入されると松江市以外の城は必要なし
との考えから建築物は一部(中仕切門と扇御殿化粧の間)を除き全て払い下げられ、
解体されます。解体を免れた建築物も、化粧の間は現存するものの
複数回改築や修繕が行われており当時の面影を残しているかは不明であり、
また中仕切門も1975年の台風により倒壊(同年再建)しており、
当時の面影を残すものは石垣のみとなっております。
【鳥取城の見どころ】
ここからは鳥取城の魅力について書きます。
何度も落城を経験した鳥取城、そんな鳥取城の個人的な注目ポイントは3点です!!
①天球丸
鳥取城は大きく分けると山ノ上丸、山ノ下丸に分けられ、
更に山ノ下丸は上から天球丸、二の丸、三の丸等に分けられます。
その中の天球丸は、池田長吉の時代に宮部氏時代の石垣をもとに拡張、
更には池田光政の時代に大幅に改築が加えられ、三階櫓が建築、
二の丸と対をなしていたと考えられております。(櫓自体は火事で焼失)
また、江戸時代後期になると石垣のたわみを防ぐために
球面の石垣(巻石垣)が作られており、日本全国見てもかなり珍しい
石垣の作りになっております。
(天球丸の巻石垣、周りには打込みハギの石垣が見える)
②山ノ上丸
山城時代の鳥取城を改築してできたのが山ノ上丸と考えられております。
天守については、山名豊国の時代に移築され、池田長吉の時代に
改築を加えられたと考えられておりますが、落雷により焼失。
現在は天守台(石垣)を残すのみになっております。
この天守台はかなり広く、天守台の上からでも鳥取市街、鳥取砂丘を
眺めることができ、往年の姿をしのばせます。
また、天守台以外も複数の段に連なった石垣や天守近くの井戸の遺構を
確認することができ、山ノ下丸から山ノ上丸まで30分程度かかるものの
登城することをお勧めします。
(鳥取市街からも山ノ上丸の石垣を確認することができます。)
(山ノ上丸にある天守台、写真ではわからないが増築された跡が見受けられる。)
③いろんな時代の石垣が一遍に楽しめる
各時代において城主が入れ替わり、その度に改築された鳥取城は、
特に石垣の作りにおいて各時代の特徴を見て取ることができます。
ここで石垣の積み方について紹介します。
大きく分けると以下の3つの積み方があり、鳥取城では全て見ることができます。
・野面積み
自然石をそのまま積んでできた石垣。近世城郭の走りに構築された石垣で、
見た目はお世辞にもきれいとは言えません。また、安定感がないため
高石垣を築くには適しておらず、石垣が何段にもなる特徴があります。
鳥取城では天球丸の下部等に見ることができます。
・打込ハギ
自然石をある程度加工し、接合部分の隙間をなるべく埋めるように積まれた石垣。
隙間に小さな石を詰めることもあります。近世城郭で一番多く見かける
石垣になり、この手法により高石垣を築くことも可能になりました。
鳥取城では二の丸を中心に多くが打込みハギの石垣になります。
・切込ハギ
自然石を徹底的に加工し、ほぼ隙間なく積まれた石垣で一見すると
重機等を用いて再現された石垣にしか見えません。
鳥取城では北御門跡に見受けられます。
加えて鳥取城では山の尾根沿いに山名豊国あるいはそれ以前の砦跡が残されており、
近世城郭誕生前の城を慮ることができます。
以上のように様々な時代を一遍に感じられることが
鳥取城の最大の魅力と言えます。
(天球の丸下部の野面積みの石垣)
【鳥取城のアクセス】
最後に鳥取城のアクセスについて書きます。
車:二の丸の手前に県立博物館の駐車場があるのでそこからすぐ
電車:鳥取駅から循環バスくる梨「緑コース」で「仁風閣・県立博物館」下車すぐ
いかがでしたでしょうか。
近くにある仁風閣も国の重要文化財であり、「るろうに剣心」のロケ地でもあります。
観光の際は是非足を延ばしてみてください。