たろうの城ぶら日記

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土の城~玄蕃尾城の魅力&見どころ

10回目の投稿は玄蕃尾城(げんばおじょう)をターゲットにします。

玄蕃尾城は越前国の南、今の福井県滋賀県の県境に位置する城になり、

賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いにおいて柴田勝家の本陣がおかれました。

戦闘が行われなかったことから山城の遺構がそのまま残っており、

その城郭は中世城郭の最高点ともいうべき完成度の高さを誇ります。

今回も歴史に始まり、その魅力や見どころについて紹介していきます。

 

 

【玄蕃尾城の歴史】

玄蕃尾城は賤ヶ岳の戦いのために整備された城であるため、

越前国の歴史に直接は絡んできません。

そのため今回は、賤ヶ岳の戦い前後を中心に見ていきたいと思います。

 

柴田勝家による越前支配

1573年一乗谷城の戦いにおいて織田信長は、朝倉氏を滅ぼし越前国支配下

おさめます。当初は朝倉氏の旧臣前波氏に統治を任せますが、同じ旧臣の富田氏、

さらには加賀の一向一揆により越前国は奪い返されます。

これに対し信長は軍を派遣し平定、越前国柴田勝家に与えられます。

勝家は北ノ庄城を築城し越前国の支配を固めるとともに、加賀一向一揆の平定に

乗りだし、1580年ついに加賀国を平定、領土を拡大します。

さらには同じ織田家臣の佐久間信盛が失脚したことにより、

織田家の筆頭家臣となり最盛期を迎えます。

 

賤ヶ岳の戦い

1582年本能寺の変で信長が討たれます。勝家は明智光秀を討つために

準備を進めますが、変を知った上杉氏が越中に侵攻してきたこともあり

光秀討伐の功を羽柴秀吉に先を越されます。

その後の清州会議において、信長の後継者をめぐり秀吉、滝川一益との対立が

先鋭化します。1583年一益が伊勢で挙兵すると同時期に勝家も挙兵、

余呉湖の北で秀吉軍とにらみ合いが続きます。

このタイミングで玄蕃尾城は整備(あるいは新規に築城)されたと思われます。

1ヶ月程度にらみ合いが続いた後、ついに勝家軍は侵攻、賤ヶ岳の戦い

開始されます。勝家軍の佐久間盛政(金沢城の初代城主)の活躍もあり一進一退の

攻防を続けますが、勝家軍の前田利家(後の金沢城主)が秀吉側に内応すると

一気に秀吉軍優位に傾きます。秀吉軍が本陣に近づくと勝家は北ノ庄城に退却、

玄蕃尾城はそのまま放置されます。

その後、秀吉軍は北ノ庄城に攻め入り、勝家を討ち取ります。

この戦いの結果、信長の後継者としての秀吉の地位が固まることとなります。

 

【玄蕃尾城の見どころ】

ここからは玄蕃尾城の魅力について書きます。

個人的な注目ポイントは以下の2点になります!!

 

空堀、土塁

玄蕃尾城は戦闘用の城として整備されたので石垣等はありません。

空堀土塁で防御を固めております。空堀はかなり深く、空堀からの侵入は難しい

ものとなっており、合わせて土塁が侵入を阻みます。

各曲輪間は土橋のみでつながっており、

曲輪の虎口は基本的に喰違虎口になっており、

石垣のない中世城郭としては防御面がかなり高い城であることがうかがえます。

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(主郭部の土塁と虎口。主郭部の土塁は特に高くなっている。)

 

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(空堀と土塁。空堀の中には行き止まりになっているものもある。)

 

②主郭部の遺構

主郭部は空堀と高い土塁により囲まれております。虎口に注目すると、

主郭の虎口は南北ともに馬出郭がついており、馬出虎口となっております。

また、主郭の北東部は方形に一段高くなっており、礎石が確認されている

ことから櫓等の建物が建築されていたと思われます。

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(パンフレットより主郭部付近の図。)

 

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(主郭部にある櫓台。虎口から一番離れている所に築かれている。)

 

【玄蕃尾城のアクセス】

最後に玄蕃尾城のアクセスについて書きます。

積雪のため登城が可能なのは4月中旬~11月中旬までになります。

車:柳ヶ瀬トンネル(福井側)手前を左折。登城口より城まで約10分

電車:公共交通機関でのアクセスは難しいです。

         「余呉駅」よりタクシーになります。

 

玄蕃尾城は、遺構がきれいに残っているだけでなく、

整備され続けていることもあり中世城郭を感じるうえでは

お手本のような城になっております。

近くの柳ヶ瀬トンネルは日本一長いと言われる赤信号(6分30秒)があります。

北陸観光の際は是非足を延ばしてみてください。