西国の監視塔~明石城の魅力&見どころ~
7回目の投稿は明石城(あかしじょう)をターゲットにします。
築城の経緯から姫路城と合わせて、
今回も歴史に始まり、その魅力や見どころについて紹介していきます。
【明石城の歴史】
城の歴史を見ていきたいと思います。
①建国~室町時代
明石は旧石器時代から人が住んでいたと考えられており、
西八木遺跡では明石原人を始めとした人が住んでいた痕跡が発見されております。
古くから陸路、海路の要所として発展していただと考えられております。
7世紀に入ると明石国が建国されましたが、すぐに針間国に編入され
室町時代に入ると幕府成立時に足利氏の味方をしたことから
赤松氏が守護として治めることになります。
しばらくは安定した統治を続けていた赤松氏ですが、
播磨の国一揆(播磨の土一揆)が発生するなど次第にその支配にも陰りが見えます。
そして1441年嘉吉の乱(嘉吉の変)をおこすと幕府軍の追討を受け敗北、
播磨国は山名氏の手に渡ります。
ここから播磨を巡る情勢はめぐるましく変化していくこととなります。
②戦国時代
応仁の乱が発生すると赤松氏が再び播磨国の守護に返り咲きますが、
その力は衰えており、東播磨(明石など)は別所氏、西播磨(姫路など)は浦上氏が
支配するようになります。
別所氏は東播磨支配の拠点として三木城を築城、
その後の東播磨統一の過程で明石に林ノ城を築城、就治(なりはる)の時代に
最盛期を迎えます。織田信長が上洛すると別所氏は当初信長に従い、
三好氏、毛利氏といった勢力と交戦を続けます。
しかし、別所氏は次第に信長のやり方に反発を抱くようになり離反、
波多野氏、毛利氏と手を組み信長に対抗します。
これに対し秀吉は信長の命のもと播磨に侵攻を開始、
別所長治は三木城に籠城し俗にいう三木合戦が開始されます。
籠城した長治に対し秀吉は兵糧攻めを実施、「三木の干殺し(みきのほしごろし)」
と呼ばれるこの戦略は、当初は秀吉側からの裏切りの発生で長期化するものの
徐々に効果を表し三木城は落城、長治が自害し戦国大名別所氏は滅びます。
その後関白となった秀吉は大規模な国替えを実施、
この国替えで明石軍を与えられたのが高山右近になります。
右近は赴任後、林ノ城を改築し船上城(せんげじょう)とし、
城下町を合わせて整備します。
しかし、右近はバテレン追放令によりわずか2年で明石の地を去ります。
その後何人かの城番が置かれ江戸時代に突入します。
③江戸時代~近現代
江戸時代に入ると播磨国は姫路藩となり、船上城は姫路城の支城となります。
1617年明石藩が新設され小笠原忠真が赴任すると、2代将軍徳川秀忠より
直々に築城命令がくだされます。これには関ヶ原戦い以降に仲間になった
西国の外様大名への牽制として姫路城につぐ拠点の確保を
狙ったものと思われます。
廃城になった城から部材を調達し近代城郭の明石城を築城します。
この際、坤櫓は伏見城より、巽櫓は船上城より移築されたと言われ、
築城と並行して城下町の整備も行われ宮本武蔵が指導した記録が残っております。
その後、しばらくは城主が安定しない時代が続きますが、
17世紀後半に松平氏が入城以降は松平氏が城主を勤め上げ明治維新を向かえます。
明治時代に入ると廃城令を受けて明石城は廃城になります。
艮櫓(うしとらやぐら)、乾櫓、土塀等は解体されるも、
皇族の御料地になったこともあり整備が続けられ、
残り2基の三重櫓は現存したまま今日までその姿を留めております。
(太鼓門より城の全景。写真右が巽櫓、左が坤櫓)
【明石城の見どころ】
ここからは明石城の魅力について書きます。
個人的な注目ポイントは以下の2点になります!!
①現存の三重櫓
天守が現存する現存12天守は有名ですが、現存する三重櫓の数は
あまり有名ではありません。実は現存天守と同じ12期しかなく、
複数持っている城があるため実は8城にしか現存しません。
そのうち2基が明石城にあります。
明石城は元々4基の櫓が築城されたと考えられておりますが、
北の2基は近代化の中で解体され小学校の材料になったそうです。
櫓は方角により名前がついており、坤櫓(ひつじさるやぐら)、巽櫓(たつみやぐら)と
呼ばれ、明石藩の政治の中心地でありました。
(坤櫓。櫓は2基とも一般公開されており、月によってどちらかに入城できる。)
②天守が築城されなかった天守台
坤櫓のそばに天守台が築かれており、その大きさはかなり大きく島原城や
熊本城に匹敵する天守が建てうる大きさでした。
しかし、天守自体は築かれなかったと言われており、坤櫓が代用されておりました。
天守が築かれなかった理由は不明ですが、大砲等の標的の対処になるから、
中津城(大分)から天守が移築される予定であったが計画が頓挫した等の
理由があげられております。天守台の隅部には、算木積(さんぎづみ)が
用いられており当時の最新の技術が用いられていたことがわかります。
※算木積とは・・・
石垣の隅部に長辺の石と短辺の石を交互に組み合わせることで、
隅部の強度を強くした石垣。関ヶ原の戦い後に主流になった建築方法で、
石垣の強度の飛躍の一因となりました。
(天守台。目立たないが、一部転用石が用いられている)
(天守台の算木積。長辺の石と短辺の石が交互になっているのが見える)
【明石城のアクセス】
最後に明石城のアクセスについて書きます。
車:明石城郭近くに駐車場有り。駐車場から徒歩5分程度
電車:「明石駅」より徒歩5分
明石城は今でも駅のホームから見ることができ、
明石を象徴する建築物であり続けております。
明石観光と合わせて是非足を延ばしてみてください。