たろうの城ぶら日記

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島原の乱の舞台~原城の魅力&見どころ~

5回目の投稿は長崎県島原半島に位置する「原城(はらじょう)」をターゲットにします。

南蛮貿易が活発になって以降キリスト教徒が多かった島原地方。

そんな島原地方に位置する原城島原の乱(島原・天草一揆)の舞台となっており、

2018年「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」として

世界文化遺産にも登録されております。

今回も歴史に始まり、その魅力や見どころについて紹介していきます。

 

 

島原半島原城の歴史】

いつもはここで城の歴史を紹介するのですが、

原城日野江城の支城の一つであり、城としての歴史があまりありません。

そこで、原城の位置する島原半島の歴史を中心に

いかにして島原の乱につながったかを見ていきたいと思います。

 

①建国~室町時代

長崎県内で旧石器時代の遺跡が見つかっていることから、

島原半島にも旧石器時代から人が住んでいたと考えられます。

縄文時代の遺跡としては、南島原市原山支石墓群と呼ばれる

日本最大級の支石墓遺跡が発見されています。

 

7世紀になると律令国家として肥前国が建国されますが、

今の佐賀県長崎県を合わせた広域に及ぶものであり、

政庁も佐賀県内に置かれています。

また、同じ長崎県内においても対馬を始めとした地域の方が、

対朝鮮という面で重要視されていました。

 

平安時代末期~鎌倉時代初期にかけて平家を始めとした都人の西国進出が進みます。

島原半島においても藤原純友、あるいは平氏の子孫と言われる藤原氏(後の有馬氏)が

流入日野江城を築城し豪族として勢力を拡大していきます。

 

②有馬氏による統治

15世紀後半、有馬貴純島原半島内の諸勢力を制圧、半島の統一を達成します。

これにより、それまで半島内の一豪族でしかなかった有馬氏は戦国大名としての道を

歩むこととなります。この半島統一過程で、日野江城の支城として原城を築城。

南島原における支配を固めます。

勢いに乗った貴純は続いて高木郡(今の島原半島諫早市)への侵攻を開始します。

この野望はその子晴純に受け継がれ、晴純の時代に有馬氏は最大版図を形成、

更には貿易の独占権を獲得し最盛期を迎えます。

また、この時代にキリスト教流入したと考えられており、

このことは後の島原の運命を左右することになります。

 

しかし、16世紀中頃になると龍造寺氏が台頭、徐々に有馬氏の領土へ

侵攻し始めます。始めこそ互角に渡り合っていた有馬氏ですが義貞の代になると

敗北が続き、ついには島原の領主レベルまで没落します。

ただ、この時代は義貞自らがキリスト教に改宗しており、

領内にキリスト教が布教するなど文化面での成熟を見せます。

 

義貞の子晴信は、領土の減少による収入減を補うため自らもキリスト教に改宗し、

南蛮貿易に頼ります。このことは貿易による利益をもたらしただけではなく、

最新装備の流入等軍備面の増強につながりました。

当初は、龍造寺氏に従う道を選んだ晴信でしたが、再度攻勢に転じます。

晴信は島津氏と手を結び、宿敵龍造寺氏を撃破、

更には豊臣秀吉が九州平定に乗り出すと、島津氏を裏切り豊臣勢として参加、

島原半島の領土を安堵され再度最盛期を迎えます。

 

しかし、江戸時代に入った1612年岡本大八事件において晴信は

幕府方の長崎奉行に反抗した罪で自害させられてしまいます。

続く直純は同年に発令された禁教令を受け、キリスト教徒への迫害を開始しますが、

義貞、晴信と二代続けてキリシタン大名が続いた半島内の信仰は根強く、

自らもキリスト教徒であったことへの良心の呵責か転封を願い出、

日向国延岡を与えられます。

これにより半島における有馬氏の統治は終焉を迎えます。

 

島原の乱

有馬氏の後、赴任した松倉重政は従来の拠点であった日野江城では、

城下町の整備に向いていないことから島原城を築城を開始、

日野江城原城は廃城となります。

(ただ、破却は行われず、石垣等一部が転用されたものと考えられている。) 

 

しかし、この島原城島原藩の石高に見合わずかなり大規模な城であり、

領民に重税を課すなど過酷な搾取をおこないます。

また、半島内に多かったキリシタンへの迫害を行い、

特に勝家の代における弾圧は残忍さを極めることとなります。

 

以上のような政治、信仰における弾圧に耐えかねた領民は

旧有馬氏の家臣を中心に組織化、1637年ついに代官所を強襲、

ここに島原の乱が勃発します。

乱直後、一揆軍は島原藩内で討伐軍と交戦、一時は島原城下まで迫り、

他藩へ侵攻する勢いでありました。

しかし、九州諸藩の討伐軍が近づいてくると一転して南下を開始、

原城に籠城、天草(熊本)での一揆勢も加わり徹底抗戦の形を見せます。

当初、気軽に鎮圧できると考えていた討伐軍でありましたが、

原城は三方を海に囲まれており苦戦、敗戦を重ねます。

 

しかし、数か月に及ぶ戦いの末討伐軍が兵糧攻めを始めると事態は一変、

一揆側からも徐々に投降者がでてきます。

そして1638年春最後は討伐軍の力攻めに屈し、原城は落城、

一揆への参加者は全員処刑され島原の乱は鎮圧されます。

 

終結後、勝家は斬首、島原藩は幕府の天領になり、

原城は再び拠点となることの無いよう徹底的に破却されます。

これにより原城の城としての歴史は幕を閉じます。

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(島原城天守、昭和に当時と同じ大きさで復興された。全国3位の大きさである。)

 

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(島原城と高石垣。かなり見事な城ではあるが、島原の乱の原因となる。) 

 

原城の見どころ】

ここからは原城の魅力について書きます。

島原の乱により徹底的に破却された原城ですが、

一部城時代の跡を確認することができます。

 そんな原城の個人的注目ポイントは2点です!!

 

①本丸の石垣

破却のすごさを感じ取ることができるのがこの石垣群です。

特に隅石と呼ばれる石垣の隅を構築するような大きな石はほとんど残っておらず

徹底した破却が行われたことを感じることができます。

また、破却された石垣の一部は城内に転がっております。

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(破却された石垣。高さがないことからも破却のすごさが伝わる。)

 

② 二の丸と本丸間の空堀

二の丸から本丸に向かうと本丸手前で大きな空堀が目に付きます。

一説によると島原の乱時に掘られたとされており、二の丸と本丸を分断

原城の防御面を高めております。

原城においては、本丸のような石垣等の近世城郭と、

二の丸、三の丸のような空堀を始めとした中世城郭が融合しており、

城郭の時代の流れを感じることができます。

 

※中世城郭、近世城郭とは・・・

元々、城は戦用の物であったため中世においては山城が築かれることが多く、

防御設備は土塁堀切空堀といったものになります。これを中世城郭と呼びます。

しかし、織田信長安土城を築城以降、城下町を前提とした城づくり、

天守を中心とした石づくりの城が全国に広がります。これが近世城郭です。

近世城郭が広まるにつれて元の山城が改修され石垣等が作られることがあり、

原城も改築され本丸部分のみ石垣等ができたと考えられております。

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(二の丸、本丸間。二の丸から本丸を臨むと段差になっており防御面の工夫が見える。)

 

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(二の丸出丸付近の空堀。三の丸から歩いてくると複数の空堀を確認できる)

原城のアクセス】

 最後に原城のアクセスについて書きます。

車:三の丸付近の駐車場から徒歩20分程度で本丸(シャトルバスもあり)

電車:島原鉄道「島原駅」より島鉄バスで「原城跡入口」下車、徒歩15分

 

原城雲仙岳有明海に囲まれており、三の丸~本丸にかけて歩くと

城の歴史を感じ取れるだけでなく、かなり気持ちがリフレッシュされます。

長崎のキリスト教関連観光と合わせて是非足を延ばしてみてください。