天空の城塞~備中松山城の魅力&見どころ~
4回目の投稿は日本三大山城の一つで山城としては唯一天守閣の残る城
「備中松山城(びっちゅうまつやまじょう)」をターゲットにします。
鎌倉時代に建築され、以降備中、備前における戦乱の中心地となった
備中松山城(びっちゅうまつやまじょう)。
今回も歴史に始まり、その魅力や見どころについて紹介していきます。
【備中松山城の歴史】
備中松山城の位置する備中国(岡山県西部)の歴史と合わせて城の歴史を見ていきます
①備中国建国~鎌倉時代
備中国は古代から先進地域であり、鉄の生産、大規模古墳の造営等が
行われていることから有力豪族の拠点であったと考えられています。
また、陸路では山陽道の一部として、海路では瀬戸内に面していることもあり
交通の要所として重要視されており、7世紀には都への防御面を考えて
鬼ノ城が建築されています。
鎌倉時代に入った1240年地頭として赴任してきた秋庭重信は4つの峰からなる
天然の地形に目をつけ、築城を開始、これが後の備中松山城の元になったと
考えられております。また、鎌倉時代に東国から庄氏、上野氏、三村氏といった
勢力が備中国に流入、彼等が国人として根付いていき、備中国の覇権を巡って
争っていくこととなります。
②室町時代~戦国時代
その支配は決して安定感はなく、国人衆が争う一方で、山陽から大内氏、
山陰から尼子氏が侵攻してき覇権を争うようになります。
その国人衆から出てきた庄氏は尼子氏と手を結び、
備中松山城周辺を支配していた上野氏を滅ぼして備中松山城を拠点とします。
ここから備中松山城、ひいては備中国を巡る争いは加速してゆきます。
③三村氏による統治
庄氏が尼子氏と手を結んだことにより覇権争いの手詰まりを感じた三村家親は、
毛利氏(毛利元就)を頼ります。その結果1561年家親は庄氏を破り備中松山城に入城、
備中における支配を確立します。
備中のほぼ全域を支配した家親は、毛利氏の後ろ盾のもと続いて備前国、美作国へ
侵攻を始めます。しかし、備前国の宇喜多直家により家親は暗殺、その子三村元親は
弔い合戦と称し備前国を攻め込むも、またしても直家に敗れ三村氏の拡大路線は
一旦休止せざるを得なくなります。
1568年元親は、毛利氏が九州侵攻するのに合わせて兵を動員、
備中松山城を始めとした備中の警備が手薄になります。
その隙をつき直家は備中に侵攻、備中松山城を守っていた庄高資をはじめとした武将
を寝返らせ戦局を優位に進めます。しかし、本騒動や出雲での尼子再興軍の動き
を受け、毛利軍が引き返してくると状況は一変、1571年備中松山城は落城し、
再び三村氏(元親)の配下に収まります。
再び城主となった元親は、備中松山城の大改築に乗り出します。
まずは、本丸を中心に整備を行い、続いて周囲に出丸を築き上げます。
この出丸は「砦二十一丸」と呼ばれ、備中松山城を中心とした要塞が完成しました。
しかし、そんな元親の治世は長くは続きませんでした。
※出丸とは・・・
城の本城(本丸、二の丸、三の丸等)とは離れて作られた曲輪(郭、くるわ)のこと。
見張り機能に始まり、有事の際は攻撃、あるいは本丸軍勢との挟み撃ち等に
利用された。
④備中兵乱
直家の備中侵攻が失敗に終わりしばらくした1574年毛利氏の小早川隆景は突如
直家と事実上の同盟を結びます。これは、備前国を治めており、
織田信長と結んで毛利氏に歯向かっていた浦上氏への対抗策と思われます。
毛利氏が父の敵である直家と同盟を結んだことに元親は大反発、
ついに毛利氏を離反し信長にすり寄ることとなり、
結果として「備中兵乱」と呼ばれる大騒動に発展します。
すでに要塞化していた備中松山城に対し、毛利軍は周辺の城をとしたうえで
包囲網をひき持久戦を展開、離反等の内部のからの崩壊の策をとります。
包囲して数か月経過すると、三村氏内部から離反が続出、
1575年備中松山城は落城し毛利氏の手に渡ります。
その後も備中兵乱自体は続くものの、三村氏に対攻する力はなく敗北。
元親の自刃をもって戦国大名としての三村氏は滅び、
⑤江戸時代以降
関ヶ原の戦いで毛利氏が敗れると小堀氏が城番として備中国に派遣されます。
小堀氏は城の整備と合わせて山麓部に御根小屋(現在の県立高梁高校の位置)を建築、
城の中心を山上から山麓に持ってきます。
さらに水谷氏の時代になると備中松山城は近世城郭としての大改築が行われ、
今の姿になったといわれております。その後、この水谷氏の下、
明治時代に入ると、明治6年の廃城令により御根小屋は取り壊され、
城も現在の約5万円で商家に売却されます。
しかし、備中松山城はかなり不便な土地にあったため、
天守を始めとした建築物は破壊を免れるものの放置され徐々に荒廃が進みます。
※荒廃している城の衝撃的な写真はgoogleの画像検索でご覧いただけます。
「備中松山城 古」等で検索ください。
昭和初期にこの山城を調査した中学教諭の活動により城郭保存の機運が高まり、
町民の手による修理、解体作業が進められていき、
山城としては唯一、現存天守を今日まで残しております。
【備中松山城の見どころ】
ここからは備中松山城の魅力について書きます。
現存天守をかまえる山城、そんな備中松山城の個人的な注目ポイントは2点です!!
①現存する天守・櫓(やぐら)
何といっても一番の見どころは現存する天守、櫓になります。
二層二階の天守になり、現存する12天守で最も小規模な天守になりますが、
山城ゆえ最も高所にある天守の一つでもあります。(標高自体は松本城が最高です。)
昭和の大修理の際、一部原型と形を変えて修築しております。
1階には囲炉裏や装束の間が2階には城の守護神を祀った御社壇があります。
また、城内のパネルから城の歴史や、修復作業について学ぶことができます。
また、忘れてはならないのが本丸の後ろにある二重櫓です。
本丸と後曲輪(後郭)を結ぶ役割を果たしており、
石落とし等の防御設備も確認できます。
天守から直接は迎うことはできず、天守の横をすり抜けていくか、
本丸の石垣の横を少し回っていく必要があります。
見落としてしまいがちですが、これも現存する建築物になります。
(備中松山城天守、石垣と合わせて巨石の上に建築されている。)
② 岩盤に積み上げられた石垣
備中松山城に登城中、最初に目に入るのが大手門跡、三の丸周辺の石垣群です。
自然の地形、巨岩を利用した石垣は圧巻の一言であり、
あらためて要塞としての備中松山城を感じ取ることができます。
また、各曲輪は元々土塀で区切られていたと考えられており、
大手門から侵入したとしても本丸まではかなり遠回りさせられ、
こういったところにも防御面の工夫が感じられます。
※門について・・・
城により門の数はばらばらであるが代表的な門は下記の3つ
大手門(追手門)・・・お城における表門。最も外側にあり、格式や防御面に優れている
搦手門(からめてもん)・・・お城における裏門
水ノ手門・・・川などの水辺に面した方角に出るための門
(大手門周辺の石垣群、土塀の中には一部現存しているものもある)
(二の丸より本丸を臨む、当時はこの二の丸も土塀で囲まれていた。)
【備中松山城のアクセス】
最後に備中松山城のアクセスについて書きます。
基本的には「ふいご峠駐車場」から徒歩20分で天守につきます。
ふいご峠駐車場までは・・・
車:城見橋公園駐車場まで行き、そこからふいご峠駐車場までシャトルバス
電車:備中高梁駅より市内循環バスで「松山城登山口」、そこから徒歩30分程度
竹田城ほど有名ではないもののこちらも秋~春にかけて雲海が発生し、
付近の展望台から「天空の城」を眺めることもできます。
岡山観光と合わせて是非足を延ばしてみてください。