難攻不落の城~月山富田城の魅力&見どころ~
3回目の投稿は日本五大山城(五大山岳城)の一つ
「月山富田城(がっさんとだじょう)」をターゲットにします。
尼子氏の主城として長期にわたり出雲国、ひいては山陰地方の
中心的城であった月山富田城(がっさんとだじょう)。
今回も歴史に始まり、その魅力や見どころについて紹介していきます。
【月山富田城の歴史】
今までは城の歴史に入る前に、城が位置する国について紹介してきましたが、
出雲国はそれだけで記事が書けてしまうほど内容が濃いため簡略化し、
一気に月山富田城の歴史について紹介します。
①古代出雲~平安時代
古代出雲には宗教国家が成立していたと考えられており、
そこでの信仰をもとに日本神話が作られたとみられています。
しかし、いずれかの時代でヤマト政権に下ることとなり、
以後出雲守を中心とした律令制が整備され、
その過程で月山富田城が築城されたといわれています。
②鎌倉時代~室町時代
月山富田城に入城。その後は佐々木氏、傍流の塩冶氏による支配が続きます。
室町時代に入ると当時の支配者であった塩冶高貞は謀反の疑いをかけられ謀殺、
代わりに京極氏が出雲守護として入城します。
南北朝時代末期になると山名時氏が京都の混乱に乗じて勢力を拡大、
月山富田城は時氏の配下になり、以後は山名氏が出雲守護を歴任することになります。
しかし、山名氏が明徳の乱で敗れると勢力は一気に衰退。再び京極氏が守護として
支配、京極氏は自らの親戚である尼子氏を守護代に任命することで支配を固めます。
以後、月山富田城は尼子氏を城主として発展を遂げていきます。
室町時代に入るとしばらくは守護京極氏、守護代尼子氏の体制で安定した統治が
続けられていましたが、守護代尼子経久の代になると室町幕府の命令を無視するなど
独自の権力基盤の拡大が目に付くようになります。この行動が原因となり
1484年経久は守護代の役職を解任され、月山富田城を追い出されます。
しかし、経久は出雲に身を隠し1486年元旦、正月を祝う塩冶氏の不意を突き
再び月山富田城の城主となります。
この一連の行動は応仁の乱以後の戦国大名の登場の先駆けといわれ、
経久は「下剋上の先駆者」と呼ばれるようになります。
月山富田城の乗っ取りに成功した経久は出雲の平定、ひいては山陰地方の統一に
乗り出します。その中で月山富田城は、尼子氏の主城として領域の拡大が続けられ、
難攻不落の城として整備されていきます。
③戦国時代(月山富田城の戦い)
経久の山陰統一は、当時山陽地方を支配していた大内氏(大内義隆)と
それに味方する毛利氏(毛利元就)との対立をうみます。
以後、月山富田城は合計3度の大きな戦いの舞台になります。
③-1第一次月山富田城の戦い (籠城側:尼子軍vs攻城側:大内軍+毛利軍)
1542年義隆を総大将とする大内軍は、毛利軍と合流し出雲侵攻を開始した。
一方、尼子軍は前年の吉田郡山城の戦いで敗れたことにより、
国人衆の大内氏側への寝返りが頻発、時を同じくして経久が死去こともあり、
尼子氏存続をかけた戦いとなります。
翌1543年大内軍は月山富田城への攻城を開始するも、
天然の要塞に苦しみ城攻めは難航、味方の寝返りもあり16ヶ月に及ぶ攻城の末
撤退することとなり、籠城した尼子軍が勝利をおさめます。
この戦いの結果、大内軍は尼子軍の追撃で義隆の子晴持を失っており、
大内氏衰退の大きな要因となります。
一方、尼子氏は晴久のもと勢力の回復きっかけとなり、尼子氏最盛期を
迎えることとなり、山陰における地位を確固たるものとします。
③-2第二次月山富田城の戦い(籠城側:尼子軍vs攻城側:毛利軍)
第一次の戦い以降衰退した大内氏を取り込み大きくなった毛利氏は、
中国地方の統一を目指して再び山陰地方へ侵攻、月山富田城の攻略を目指した。
いくつかの戦いに勝利したのち1565年春、毛利軍は月山富田城を包囲し
総攻撃をしかけます。
しかし、尼子軍は激しく応戦、毛利軍の城内侵入を阻止し
結果として毛利軍は一時撤退を余儀なくされ、初戦は尼子軍の勝利に終わります。
秋になると毛利軍は再び城を包囲、今度は力攻めではなく兵糧攻めを行います。
この兵糧攻めには尼子軍も耐え切れず、1566年に月山富田城は落城。
ここに尼子氏は滅びることとなり、以後毛利氏による月山富田城の整備が
進められていきます。
③-3第三次月山富田城の戦い(籠城側:毛利氏vs攻城側:尼子再興軍)
尼子氏を滅ぼし中国地方の統一を成し遂げた毛利氏の次なる狙いは、
九州地方であった。手始めに北九州の大友氏との戦いに勢力をつぎ込み、
出雲等の軍備が手薄になった。
一方、滅亡した尼子氏であるが、山中鹿之助等を中心とした再興軍が
活動を続けており、手薄になった出雲の攻略、旧居城である月山富田城の攻城に
着手します。
1569年尼子再興軍は、孤立した月山富田城に侵攻します。
しかし、力攻めでの攻城には失敗し、兵糧攻めに移行、徐々に毛利軍を追い詰めます。
この兵糧攻めの成功が見えた1570年北九州より引き返してきた毛利軍に
尼子再興軍は打たれ、結果として籠城した毛利軍の勝利に終わります。
尼子再興軍は一度離散しますが、鹿之助は因幡国に身を隠し、
再度尼子再興の道を図ることとなります。(尼子再興軍の鳥取城攻略につながる。)
室町時代~戦国時代にかけて数度にわたり月山富田城は侵攻されますが、
結果として一度も力攻めによる落城はありませんでした。
まさに難攻不落の城に相応しい戦績になります。
④江戸時代以降
関ヶ原の戦いで功を上げた堀尾氏(吉晴・忠氏)は毛利氏に代わり出雲の支配者となり
月山富田城に入城。それまでの山頂を中心とした城を山麓中心に置き換え、
石垣の整備等近世城郭として改築をすすめます。
しかし、月山富田城は山を利用した城であり、城下町の発展、水上交通の発達が
見込めないことから新城の建築が急がれ、松江が新拠点に選ばれます。
1611年に松江城に堀尾忠晴が移り、月山富田城は城としての幕を下ろすこととなる。
【月山富田城の見どころ】
ここからは月山富田城の魅力について書きます。
難攻不落の城、そんな月山富田城の個人的な注目ポイントは3点です!!
①山頂部への「七曲り」
月山富田城は、防御面に特化した城であり周りは急な山の斜面に囲まれており、
進入路はわずか3か所しかありません。しかもいずれもが山腹部の山中御殿を
通っており、そこから山頂部の本丸を目指すには「七曲り」と呼ばれる
一本道を通らざるを得ない作りになっています。
この「七曲り」がかなり急であり、かつ防御側(上)からの侵入者への攻撃を
容易にしています。実際に登ってみると、攻城の難しさを体験することができます。
(山中御殿から「七曲り」山頂部を臨む、かなり急な一本道である)
②山頂部(本丸、二の丸、三の丸)
「七曲り」を登りきるとまず目に入るのが三の丸の石垣である。
二段に連なった石垣は野面積みで築かれており、ところどころ欠けているのは
松江城の築城の際に破却された名残と考えられている。
三の丸を過ぎると二の丸、本丸と続くのであるが、二の丸と本丸間に築かれた
堀切が見事である。深さ10m近くあると思われる堀切は、
侵略された際の最後の防御手段になったと思われる。
※堀切とは・・・
山の尾根を削り谷を作ることで敵の侵入を防ぐ防御設備、
一見すると本当に谷や通路にしか見えないのだが、
中世山城における立派な防御設備である。
(三の丸の石垣、写真では確認できないが横に回ると破却された跡が残る。)
(本丸から二の丸を臨む、このように間が堀切により遮断されている)
③数々の郭群
最後に三の丸から下を眺めると山麓部にある数々の郭(くるわ)を眺めることができ、
月山富田城がかなり大きな城であったことに気づくことができる。
残念ながらどの時代(尼子時代、毛利時代、堀尾時代)にどこまで拡張したのかが
不明瞭であるが、一説によると最盛期はさらに広かったといわれており、
山陰地方の中心地に恥じぬ城であったことがうかがえる。
(三の丸より山麓部を臨む、郭がはっきりと確認でき城の大きさに気づく)
【月山富田城のアクセス】
最後に月山富田城のアクセスについて書きます。
車:安来市立歴史資料館前に駐車場有。そこから山頂部まで約40分
電車:安来駅からイエローバスで「市立病院前」下車徒歩10分(山麓まで)
いかがでしたでしょうか。
半日以上の滞在も可能なほど広い城になります。
松江城観光と合わせて是非足を延ばしてみてください。